マンボウまでの道のり

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あまりに陸前高田に何故行く、移住まで一億捨ててと言われるので、項目を作りました。

2011年8月頭に書いたブログ記事です。

※何故に三陸に住むのか、何故マイヤさんに思いいれがあるのかと聞かれた。

かれこれ・・・25年も前の話しに舞い戻る。

私が25年前に結婚する前日、25歳で会社を創業しました。
それは流通VAN会社でした。地元資本とCSK資本と微小自己資本でです。

私が提案してフランチャイズで作った会社で、私は25歳で専務取締役になりま
した。しかし大赤字続きで信じられない先行きが不透明な状態でした。が消費
税施行の年になり、スーパーのレジスターは手打ちからPOSに以降するタイミン
グな歴史的な時期を迎えました。

ネットワークPOSなので、商品台帳はネットワークサーバー、店舗をスキャン
してあるくだけでPOSが立ち上がると言う、画期的な仕組みでした。後に全国
にそんな会社は出来、CSKグループとして一時期は勢いを見せました。

盛岡のその会社はある出来事で成長期に入りました。マイヤさんです。

マイヤさんとの取り組みで全国から注目された訳です。CGCグループに入る切
っ掛けになり私が専務をした会社はスパー、キャメル、大きなスーパーとも
取引して、全国のネット業者から大注目を浴びました。もちろんCSKの中でも
一番の田舎での成長を見せて私も良い立場になりました。

そして私は有頂天になってしまいました。

その後、会社は成長期に入りました。しかしこの会社の主要株主であるCSKが
私もですが、会社運営の力量の無さ、特に私に・・そして表に経営に出て来
て、社長交代、役員の厚みを出して若い私は、追い出される事になりました。

大手企業とベンチャーの関係は、そのような事は普通に行われていて、田舎
育ちの私には、経営者の勉強もした事が無く、又、慢心の上、とても今から
振り返れば恥ずかしい、アホな思い上がった若き専務だったと思います。

そして、私は放り出される事になりました。

28歳の終わり、もう29歳になる頃でした。自分で作って、成長させて、放り出
すしか無いような専務の私、これに人生の落胆を感じ、路頭に迷うと言う世界
になって、育った私の性質の悪さも露呈し、非常にダークな気持ちの人間に
入っていました。

私はマイヤさんに入社させてもらおうかと、マイヤさんに会いに行きました。

それがマイヤさんから、これから社内を強くして行きたいと私に顧問契約しよ
うと提案されました。私はマイヤさんに入社させてもらおうと思っていた矢先
です。自信も無くしていて、何をしたらと言う時期でした。まずは高橋事務所
を創立しました。岩手県の小さい県営アパートに家族で住んでキッチンにキャ
ンプ・テーブルを持って来て、その上にワープロを置いて創業です。

しかし本当は何も出来ませんでした。

まずは西純一郎と言う人が開発したMG(マネージメント・ゲーム)と言う社員
教育を若きマイヤの役員、管理職、社員の一部、女子チェッカーさんに全員
が100期を目指して勉強して行きました。

この西順一郎さんはソニー時代、井深創業社長の秘書だった方。
そして、私の結婚式での媒酌人でございます。
MG(マネージメントゲームの発案者です)


事務所を作って三年間、マイヤさんの社員教育しながら、白石食品工業の白石
社長と専務が、色々な事情を聞きつけて、白石食品の研究室の一角を月一万円
でFAXも何もかもを、使い放題で貸してくれました。


キャノンとコンピュータの取引が出来るように白石隆は保証人になってくれた
りと、マイヤと白石食品の二社、米谷一家と白石一家が支援してくれて、事務
所は急減に成長し、社名を何度も変えて、大成長、成功を遂げました。

二社が私に出資だと事務所を作る時に御預かりした30万円づつを、私は自分の
会社の株式にして、14年で上場可能な所までし、M&Aで7倍ぐらいにしてお返し
しました。そんな程度で・・した。


会社を売り、休みたいと申し出てです。上場の自信が無いと言う事と海外、全
国との戦いを単独でする実力も自信も無いのが本心でした。マイヤさんから
は、20年間の間、毎年何通も励ましの葉書、手紙、が届きまして、本当に精神
的に後ろ立てをしてくれました。

手紙を読むと心熱くなり、本当に勇気が出て泣きながら頑張った日々を思い出
します。


独りで小さい盛岡市の県営アパートで事務所を作った時から三年の間、顧問
料を頂いた事が、命が助かった事になり、いつも恩を感じていました。

家族の生活費、子供の学費、車のガソリン代・・・。

白石家には、三代目を預かり、仕事をしながら、海外や様々な経験を積ませ
て、微々たる恩返しを出来ました。そもそも筋が良く、頭も天才的な雄一君だ
ったから、何も教えた訳では無いのですが・・・。本当に立派な三代目になら
れていますが、マイヤさんには何一つ恩返しを出来ないでいて、今日までの20
年間の心の遣えになっていました。

そして震災での高田、大船渡、大槌、マイヤの店舗が流され、米谷社長のお母
さんが津波に流され、お世話になった役員や今では部課長さんがとても悲しい
惨劇な目に会い、それを見ながら、益々、何も出来ないような当家の情けな
さ、恩返しも出来ない、あの命の恩人にと思って嘆いていました。

思い立ちました。何度も陸前高田に行く内に、移転しようかと言う事になり
ました。美栄子さんの初期の給与はこのマイヤとベルセンターとの顧問料か
ら出ていましたし、マイヤの役員の方と一緒に勉強した仲です。

マイヤ社長と話している内に溢れる思いが止められず、思い悩む日々・・・。

来年立ちますマイヤの小さい広田半島米崎の店舗の脇の土地を貸してもら
い、そこに小さい小さい製麺と我杯の工房を建てる決心をしました。
これから相談です。

一家移動と財産処分は、信じられない・・聞いた事も無い金額の損失になり
ますが、思いが溢れ出て、どうにも仕方がありません。

まずは三陸に人口が増えるで一つお役立ち・・胆略過ぎますが・・。

陸前高田に面白い変わった工房が来たなあといずれ言われるようになりたい。
大船渡に変わった関係の一家が引っ越して来たけどイイっか・・と言われたい。

それを見て、どうなるかと心配するマイヤさん、社長の顔つき。

心配を増やして、もう本当に勘弁してよ・・・と言う雰囲気・・そうでなくても
震災でこんなに大変なのに・・・心配を増やして・・と言われたい。
「恩返し」・・・所か・・恩知らずかなっ・・・。


さて、又、お世話になってしまおうと。製麺の成長でと二度目のお世話になり
に行こうかなっ。社長おもさげねっ・・・。ですね。

そして三陸でこの先の人生を頑張る。これだなと。どうせ何も無かったゼロ
だった人生な訳で、何、一家の財産が無くなってもやろうと言う事に一致団
結した訳でした。また稼ごうって。話し合いました。

私・一家としては、良い人生の選択で贅沢・慢心した生活を捨てれるぞと思
っています。贅沢太りの精神構造を鍛え直そう。

そんな感じで、今日は工房と自宅の設計士と話し合いの第一回目を終えました。

設計士も高橋晃と言うこの時代に白石さんと共にマックをやった仲間・・。

さて、これから大変だ。

でも震災にも津波にも合っている訳では無い。まして貯金も未だある・・・。
幸せ過ぎて、超アホになっていた自分を振り返る・・・。
恥ずかしいもんだ・・。本当に恥ずかしい。

さて、盛岡から田沢湖に引っ越すのに、土地が決まってから1年半かかった。
売買が成立し、整地したり、水道、下水は無いから浄化槽、そんなこんなの計画
設計をして、金額が出て、ゴーしても、今は三陸は建設ラッシュ、内陸とは
事情が違う・・・・。建設関係は大工さんが足りないと言うので一年越しに
なる可能性も高い。

秋田から建設に行くように頼むか・・・。

これから、早くて1年後、もっと遅れる可能性が高い。

工房は立地が決まっているので建てるのは可能だが、私達の家が建たないと
引っ越し出来ない・・。行かないと仕事も移管出来ない。
しかし悩ましい。どうやって、これからの我慢の日々を過ごすか・・・。


田沢湖と盛岡市の自宅を清算すると・・出来たらの話しですが、売れたら・・ですね。
損失は約一億です。
高橋和良一家としては、激震です・・・。
さて、今後は借り入れにて、再度、成功しなければ・・・と。
50歳にもなって。


私のバイブルとなった本。

written by saga [陸前高田に移住する理由]
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2011年11月21日(月) 12:41

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